閉塞感
最近よく聞く言葉で、聞く度に抵抗感があるのは、「閉塞感」ということばです。
面白いと思うのは、今日本の社会が陥っているのは「閉塞感」であって、「閉塞」あるいは「閉塞状態」というような言葉は聞いたことがありません。
「私は幸福だ」といっても、「私は幸福感をもっている」とはいいません。
「閉塞感」というのは心の持ち方であって、実際に閉塞状態に置かれていることとは、ほとんど関係がないように思います。
社会のリーダーやマスコミが、あまり深い考えもなく、「閉塞感」という言葉を振り回すと、人々が自分の置かれている状況をさておいて、「閉塞感」を持つようになるのではないかと思います。
状況に鈍感であるのも考えものですが、根拠薄弱な妄想を抱くのも考えものだと思います。
言語は、考えるための道具である。
それぞれの言語には、固有の特色がある。
日本語には、時制がない。それで、未来時制もない。
日本人には未来のことが鮮明には考えられない。構文がないので常に未来の内容は混乱している。
結論も決断も下すことができない。
決断を慎重にするためではなくて、不鮮明で結論が得られないためである。
自分から考えることもできず、他人から伝えられることもない。
未来の内容そのものが、社会に存在しない為である。
未来の内容が脳裏に展開できないので、不安になる。
政治家も一般国民も理想社会の予測が立たない。
政治指導者の指導もない。
金の切れ目が、縁の切れ目としか信じられない。
人は信じられない。金を信じるしかない。
1500兆円の個人金融資産も社会資産となることなく宝の持ち腐れになっている。
金はあっても保育所には入れてもらえないようなものである。
英語の時制は、現実と非現実の内容を分けて考える作業に役立っている。
この作業は、英米の高等教育の課程で行なわれている。
現在時制の内容は現実であり、未来時制の内容は非現実である。
非現実の内容がなければ、人は無哲学・能天気になる。
神の意思に導かれることもなく、政治指導者の構想に導かれることもない。
大人になっても12歳の子供の精神状態にとどまる。
目先・手先にまつわる事柄ばかりを考えて生活することになる。
構想がなければ、備えあれば憂いなしとはゆかない。危機管理は、難しい。
一旦、問題が起これば、無為無策で閉塞感を味わう。
そのうち、何とかなるだろう。と見守る。
何とかならないのであれば、諦観に入る。
ああ、この世はむなしい。と漏らす。
こうした繰り返しが日本人の一生である。
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投稿: noga | 2011年2月11日 (金) 01時55分